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2014年08月29日

島田雄貴「行為の判断基準としての道徳」

ここで行為の判断基準として道徳があげられたのであるが、それではこの道徳とはどこかにあるものであろうか。

価値や規範が明文化されている場合、たとえば法律や学則や社則のように、明文化されたことによってそこに道徳があるように思われるかもしれない。

あるいは明文化されていなくとも、社会的慣習のように集団内で守られているようなきまりがある場合、そこに道徳があるように思われるかもしれない。

 しかし、明文化された価値や規範、あるいは明文化されていない社会的慣習など、それ自体は道徳ではないであろう。

たしかに、それらは道徳と関連している。

しかしそれら自体が道徳なのではない。

むしろそれらのものが行為において内的にも外的にも実現されるところに初めて道徳が現れてくるのである。

道徳とは、また道徳的価値や規範とは、どこかにあるものではなくて、行為によって現実化されるものである。

このような意味で、道徳そして道徳的価値や規範は、行為に、それゆえ人間のあり方や生き方に付いて現れるということができる。

それゆえまた、行為として、人間のあり方や生き方として、まさに顕現化してくるものである。

島田雄貴・教育ITソリューション
  
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Posted by 島田雄貴 at 01:04島田雄貴

2014年08月29日

島田雄貴「人間関係と行為的連関」」

家庭や地域社会の人間関係は、道徳とどのようにかかわっているのであろうか。

人間関係ははたらきかけあいであるが、このはたらきかけは行為と呼ばれている。

行為とは、自ら自覚して、自らの意志によって、自らの活動の仕方を、自ら決定して行う意志活動である。

その際、行為には、意志活動が行動として外的に現れる外的行為だけでなく、意志活動が外的に現れない内的行為も含まれている。

したがって、人と人とのかかわりにおいて行為が問題になる場合、その問題は、他者に対してどのようにふるまうかという行動としての外的な行為だけでなく、他者に対してどのようにかかわるかを考える内的行為にまで及んでいる。

さらに、行為が自覚的、有意的な意志行為である限り、それは、単に日常生活のある一部分だけをさしているのではなく、人間のあり方や生き方をも意味するものとなる。

したがって、人と人とのかかわりにおいては、個々の具体的な外的行為や内的行為だけが問題になるのではなく、その人のあり方や生き方も全体として問題になるのである。

このように、人間関係は、行為によって取り結ばれており、しかも人間のあり方や生き方に密接に関係する、そのような行為的連関なのである。

島田雄貴・教育ITソリューション  
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Posted by 島田雄貴 at 00:38島田雄貴